こんにちは!義足ユーザーのこぶちゃんです!
過去の記事でリハビリの経過や義足での日常生活については触れてきましたが、私が切断を決断するまでの経緯にこれまで触れてきませんでした。それができなかったのは、自分の人生を振り返る心の準備が出来ていなかったからだと思います。
10年前に骨肉腫を発症したことをきっかけに足がない人生を歩むことになるとは夢にも思ってもいなくて、その現実を受け入れるまでには時間がかかりました。
出口が見えない迷路の中にポンっと放り投げられたような状況が続いて、やるせなさや悔しさから心が疲弊してしまうことが何度もありました。切断手術を受けてから半年が経った今、やっとそのぐちゃぐちゃとした感情を整理することができました。
しっかり過去と向き合う中で、過去の選択に悔いがなかったと自信を持って言えるようになってから、前に進むことができるようになったと思います。
骨肉腫発症から切断までの経緯を三編に分けてお話します。まずは前編として、骨肉腫発覚から術後5年が過ぎるまでの闘病についてです。
自分の体験を発信することで一人でも多くの人の力になれたら嬉しいです。
切断までの治療と経過
2009年12月 抗がん剤開始 (術前3クール)
2010年3月 腫瘍摘出+人工膝関節置換手術 下垂足の麻痺
2010年4月 2カ月ごとに抗がん剤 (術後7クール)高校復学
2011年3月 抗がん剤治療終了
2016年10月 人工膝関節に腫脹。デブリ手術+ワイヤー抜去。
2018年7月 人工膝関節に感染の兆候。抗生剤を内服。
2018年8月 日本で関節の洗浄+デブリ手術。海外に戻り2週間で感染再燃。
6週間の抗生剤投与。
2019年3月 人工関節抜去手術。
セメントスペーサー置換後、感染鎮静まで6カ月待機。
2019年9月 人工関節再置換。術後に再感染。
2019年10月 左大腿切断手術
書き出してみると手術と化療のオンパレード(笑)「一難去ってまた一難」まさに自分の過去を表すピッタリな言葉。
まずは、すべての発端である悪性腫瘍を発症した2009年から振り返ってみたいと思います。
左脛骨骨肉腫の発症
膝にこぶし大の腫瘍が見つかる
膝の辺りの違和感に初めて気がついたのは高校1年生の11月頃です。当時水泳部に所属していて、毎日部活動で忙しい日々を送っていました。
そんなある日、プールの壁を足で蹴ってクイックターンをした時に左足全体に響くような鋭く鈍い痛みを感じました。膝辺りを確認してみると、こぶし大の硬いしこりのようなものができていて、そこを触ると少し熱感を感じました。
自覚症状が出始めた頃には、膝を抑えていないと階段を上ることもできなかった。水泳でも思ったようにタイムが出なかったり、部活後はこれまで感じたことがないような倦怠感を感じていたから、体のSOSは表れてはいたんだと思う。
翌日には整形外科を受診し、念のためX線とMRIの検査を受けました。当時の私は「痛いけど、どうせ成長痛でしょ」と高を括っていましたが、診察室で医師からX線の画像を見ながら病状を説明された時に、自分が置かれている状況の深刻さを理解しました。
「レントゲンに黒い影が見えます。精密検査をしてみないと確定診断はできませんが、悪性腫瘍の可能性が非常に高いです。がん専門病院への紹介状をお渡しします。」
ドラマのような展開に頭がついていかなくて、その後医師に何を言われたのかも覚えてない。成長痛だと思っていたからなおさらショックだった。
付き添ってくれていた母が何も言わずに、涙をこらえながら強く抱きしめてくれたことだけは今でも鮮明に覚えています。
がん専門病院を紹介される
その日のうちに紹介状を持ってがん専門病院にいきました。
言われるがまま4時間近くかけて血液検査やレントゲン、肺のCTなど精密検査を一通り受けてから、整形外科の医師に今後の治療方針や予後についての詳しい説明を受けました。
脚の模型を見せてもらいながら、「ここに腫瘍があって・・・」と説明を受けたけど、思考が完全に停止してたから、あんまり詳しくは覚えてないな。現実感もないし、急な展開に頭も心もついていっていなかったんだと思う。
幸い肺や別の臓器への転移はなかったのですが、「転移」という言葉を聞いた時に強く死を意識しました。
がん=死
高校生の私には「ガン」と「死」がイコールで繋がっていて、それ以外に答えはありませんでした。先が見えない恐怖とぬぐえない不安に押しつぶされそうになりながら、ただただ涙を流して過ごすことしかできませんでした。
それでも治療は始まります。
抗がん剤と膝関節置換手術
骨肉腫には、抗がん剤治療と外科的手術が有効だと言われています。
術前3クール、術後7クールの抗がん剤治療
私の場合は、腫瘍の縮小を期待して、術前に3クールの抗がん剤を投与しました。転移のリスクを最小限に抑えるために、術後も2カ月に一度の頻度で7クールの抗がん剤治療を継続して行いました。
使用した薬剤はアドリアシン、シスプラチン、イフォマイドの3種類。
治療の経過を見ながら3種類の薬を順番に使って、 治療開始から1年半ですべての治療が終了したよ。
抗がん剤治療は体力的にも精神的にも想像以上に辛かったです。
脱毛、耳鳴り、倦怠感などさまざまな副作用と毎回闘いながら、「あと、7回。あと3回。あと1回。」と指折り数えて10クールの治療を乗り越えました。
1回目の抗がん剤治療では吐き気止めの薬がなかったので、食べては吐くを繰り返しました。一回の治療で体重が2、3キロ一気に落ちてしまったので、このまま体重が減り続けたら治療を継続していけなくなってしまうのではないかと母が心配していました。
2回目以降はイメンドという吐き気止めの服用が始まったので、吐き気による体重減少はなくなって体力を維持しながら治療を継続することができました。
少しでも体力が戻るように、白血球の値が正常値に戻るたびに私の大好きなお寿司を母が差し入れしてくれていたよ。治療中は生ものは食べられなかったりするから、治療が終わるたびにお寿司が食べたいとリクエストしていたよ(笑)
腫瘍の広範切除と人工膝関節置換手術
病気が発覚した時には、すでに骨から飛び出してしまうほどの大きさにまで腫瘍は肥大していました。
「激しい運動をやっててよく骨折しなかったね」って言われるぐらい腫瘍は大きくなっていたみたい。外から触っても分かるぐらいだから相当大きかったってことだよね。
3クールの抗がん剤治療では腫瘍の拡大を抑えることはできたものの、すでに肥大したこぶし大の腫瘍をそれ以上小さくすることはできませんでした。
切断と人工膝関節置換手術のボーダーラインにいるような状態だったとは思いますが、当時の私は頑なに切断を拒否したので、自然と足を温存する治療方針になりました。
人工膝関節置換手術とは、切除する骨の代わりに全長30センチの人工膝関節を埋め込む術式です。手術傷は太もも15センチ上ぐらいから脛まで縦に真っすぐ伸びています。
最初は大きく残った傷跡が気になりましたが、年々薄くなっていく傷跡を見るうちに「治療を乗り越えた自分の勲章だな。」と思えるようになりました。
腓骨神経切除による下垂足
ガンが分かった時もだったのですが、それと同じぐらい悲しかったのが手術による後遺症の説明を受けた時でした。転移や再発のリスクを最小限に留めるために、腫瘍の周りも大きく切除する広範切除を行うという説明だったのですが、
「手術で腓骨神経も一部切除するから後遺症が残ると思う。そうすると、下垂足と言って足首を自力で上にあげることができなくなる。常に足首が下に落ちているから、少し足をひきずるような歩き方になると思う」
術前の状態に戻れないにしても、せめて普通に歩ける状態に戻して欲しいと思っていました。それができないと知った時は、変な話かもしれませんが、がんと宣告された時以上にショックでした。
病気の前のような生活を送ることができないんだと悲しさがドッと押し寄せてきましたが、ただ現実を受け入れるしかありませんでした。
「足に障害が残っても命を優先する。命があれば何でもできるから。」と言って励ましてくれた主治医の言葉が忘れられない。サポートしてくれる人たちがいたから、辛いことも乗り越えられたかな。
術後のリハビリと歩行レベル
術後5年まで杖を使用
術後は膝関節の足が90度まで曲がるように、機械を使いながら少しずつ角度をあげて可動域を広げていきました。最初にどれだけしっかり膝を曲げられるかが肝心だと言われていましたが、膝を曲げるたびに痛みが走ったので、思ったようにリハビリを進めることができませんでした。
術後2カ月間のリハビリで退院時には杖をついて帰ることができましたが、後遺症の影響もあって術後5年間は杖を完全に手放すことはできませんでした。
120度近く曲がる人もいるみたいだけど、私の場合は90度がMAXだったかな。椅子に座ることはできるけど、正座とか自転車を漕ぐことはできなかったよ。
屈曲角度が大きいほど可動域が広がるので、人工関節を入れていても自転車に乗ったりすることが出来る人もいるそうです。
短下肢装具の装着
手術の後遺症に下垂足が残ったことで、術後2年間は上の写真のような短下肢装具を装着して生活していました。短下肢装具を装着することで足首が下がることはなくなりましたが、当時高校生だった私は短下肢装具が靴から見えているのが気になって仕方がありませんでした。
見た目よりも機能を重視すべきであることは頭では分かってはいましたが、短下肢装具を装着した自分の姿を受け入れることができませんでした。途中からは短下肢装具を履くのをやめて、装具の代わりとなる靴を探すことにしました。ただ、靴選びは苦労の連続でした。
足先が下がった状態でも躓かないように足首を覆う靴を選ばなければいけなかったんだけど、簡単には見つからなくてとても苦労した(汗)そういう靴がない時は、あえてヒールの高い靴を履いて歩いたよ。
冬は足首を固定できるレースアップブーツなどを選んだりすることができても、夏はなかなか合う靴がありません。靴選びのアドバイスを求めたくても、周りに同じ境遇の人がいなかったので、 オーダーメイドで靴を2足作りました。
靴が用意できてからは行動範囲が広がっていきました。高校にも復学し、大学にも進学しました。術後5年が経った頃には、海外で一人で生活ができるくらいに元気になりました。
この頃になると、病気のことは時々思い出すぐらいで、すっかり普通の生活に戻ることができました。日常生活を取り戻せるようになったのが何よりも嬉しかったです。
術後2~3年の間に転移や再発が見られることが多いそうですが、それがなかったのが不幸中の幸いだったと思います。
まとめ
以上、病気発覚から術後5年までの経過をまとめてみました。
15歳の私にとって病気の発覚は人生の大きなターニングポイントになりました。それまでは入院とは無縁で、風邪をひくことも滅多にないくらいの健康体だったからこそ、
「なんで自分なの?誰か代わってよ...あんなに元気だったのに」
やるせない気持ちが爆発して、自暴自棄になって家族に何度も八つ当たりしました。両親もショックを受けていたはずなのに、そんな姿を一切見せずに、ただ私の気持ちを受け止めてくれました。前だけを見続けることができたのは、医療関係者や友達、そして何よりも家族の献身的なサポートがあったからだと思います。
どんなに厳しい状況でも、傍にいて励ましてくれたことが何よりも自分にとっては力になりました。それはがんの治療中だけではなく、切断手術に臨む時もそうでした。
支えてくれた人への感謝の気持ちは忘れずに過ごしていきたいですね。
続いては、人工関節の深部感染からカナダでの治療までについて書きたいと思います。