【切断に至った経緯】骨肉腫発症から術後5年が過ぎるまで

大腿義足
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リハビリの経過や義足での日常生活については綴ってきましたが、私が切断を選択するに至った経緯についてはこれまで触れてきませんでした。

それができなかったのは、自分の人生を振り返る心の準備が出来ていなかったからだと思います。

10年前に骨肉腫を発症したことをきっかけに、足を失う人生を歩むことになるとは夢にも思ってもいなくて、その現実を受け入れるまでにはそれ相当の時間がかかりました。

出口が見えない迷路の中にポンっと放り投げられたような困難な状況が続いて、心が疲弊してしまうことも何度もありました。

葛藤。やるせなさ。悔しさ。

切断手術を受けてから半年が経った今、やっとそのぐちゃぐちゃとした感情を整理することができました。

しっかり過去と向き合う中で、過去の選択に悔いがなかったと自信を持って言えるようになってから、現実を受け入れて前に進むことができるようになったと思います。

この記事では、骨肉腫発覚までの流れや術後5年が過ぎるまでの足の状態を中心に書いていきたいと思います。

自分の体験を発信することで一人でも多くの人の力になれたら嬉しいです。

切断までの治療と経過

2009年11月  左脛骨骨肉腫 発症

2009年12月  抗がん剤開始 (術前3クール)

2010年3月    腫瘍摘出+人工膝関節置換手術  下垂足の麻痺

2010年4月    2カ月ごとに抗がん剤 (術後7クール)高校復学

2011年3月 抗がん剤治療終了  

2016年10月  人工膝関節に腫脹。デブリ手術+ワイヤー抜去。

2018年7月 人工膝関節に感染の兆候。抗生剤を内服。

2018年8月 日本で関節の洗浄+デブリ手術。海外に戻り2週間で感染再燃。

        6週間の抗生剤投与。

2019年3月 人工関節抜去手術。

                     セメントスペーサー置換後、感染鎮静を待つこと6カ月。

2019年9月 人工関節再置換。術後に再感染。

2019年10月  左大腿切断手術

こぶちゃん
こぶちゃん

一難去ってまた一難。自分の過去を表すピッタリな言葉。

まずは、すべての発端である、悪性腫瘍を発症した2009年から振り返ってみたいと思います。

左脛骨骨肉腫の発症

膝にこぶし大の腫瘍が見つかる

膝の辺りの違和感に初めて気がついたのは高校1年生の11月頃です。

当時水泳部に所属していて、精力的に部活動に参加していました。

そんなある日、プールの壁を足で蹴ってクイックターンをした時に、左足全体に響くような鋭く鈍い痛みを感じました。

膝辺りを確認してみると、こぶし大の硬いしこりのようなものができていて、そこを触ると少し熱感があるのが分かりました。

こぶちゃん
こぶちゃん

症状を認識し始めた頃には、膝を抑えていないと階段を上ることもできなかったな。水泳でも思ったようにタイムが出なかったり、部活後はドッと倦怠感が出てたから、体のSOSは表れてはいたんだと思う。

翌日には整形外科を受診し、念のためX線とMRIの検査を受けました。

当時の私は「痛いけど、どうせ成長痛でしょ」と高を括っていましたが、診察室で医師からX線の画像を見ながら病状を説明された時に、自分が置かれている状況の深刻さを理解しました。

「レントゲンに黒い影が見えます。精密検査をしてみないと確定診断はできませんが、悪性腫瘍の可能性が非常に高いです。がん専門病院への紹介状をお渡しします。」

まさに青天の霹靂でした。

こぶちゃん
こぶちゃん

ドラマのような展開に頭がついていかなくて、その後医師に何を言われたのかも覚えていないぐらい放心状態だった。

ただ、付き添ってくれていた母が何も言わずに、涙をこらえながら抱きしめてくれたことだけは、今でも鮮明に覚えています。

がん専門病院を紹介される

その日のうちに紹介状を持って国内屈指のがん専門病院にいきました。

言われるがまま4時間近くかけて血液検査やレントゲン、肺のCTなど精密検査を一通り受けてから、整形外科の医師に今後の治療方針や予後についての詳しい説明を受けました。

こぶちゃん
こぶちゃん

脚の模型を見せてもらいながら、「ここに腫瘍があって・・・」と説明を受けたけど、思考が完全に停止してたから、あんまり詳しくは覚えてないな。

ただ、肺への転移の有無について言及されたことだけはハッキリと覚えています。

幸い肺や別の臓器への転移は認められなかったのですが、この時に初めて死というものを意識しました。

がん=死

先が見えない恐怖とぬぐえない不安に押しつぶされそうになりながら、ただただ涙を流して過ごすことしかできませんでした。

抗がん剤と膝関節置換手術

骨肉腫の治療は抗がん剤治療と外科的手術を組み合わせます。

術前3クール、術後7クールの抗がん剤治療

私の場合は、腫瘍の縮小を期待して、術前に3クールの抗がん剤を投与しました。

使用した薬剤はアドリアシン、シスプラチン、イフォマイドの3種類。

また、転移のリスクを最小限に抑えるために、術後も2カ月に一度の頻度で7クールの抗がん剤治療を継続して行いました。

こぶちゃん
こぶちゃん

治療開始から1年半ですべての治療が終了したよ。

抗がん剤治療は体力的にも精神的にも想像以上に辛かったです。

脱毛、耳鳴り、倦怠感などさまざまな副作用と毎回闘いながら、「あと、7回。あと3回。あと1回。」と指折り数えながら10回クールの治療を乗り越えました。

1回目の抗がん剤治療では吐き気止めの薬がなかったので、食べては吐くを繰り返しました。

一回の治療で体重が2、3キロ一気に落ちてしまったので、このまま体重が減り続けたら治療を継続していけなくなってしまうのではないか・・・と母が心配していたことを覚えています。

幸い2回目以降はイメンドという吐き気止めの服用が始まったので、吐き気による体重減少はなくなって、体力を維持することができました。

こぶちゃん
こぶちゃん

少しでも体力が戻るように、白血球の値が正常値に戻るたびに、私の大好きなお寿司を母が差し入れしてくれていたよ。

腫瘍の広範切除と人工膝関節置換手術

病気が発覚した時には、すでに骨から飛び出してしまうほどの大きさにまで腫瘍は肥大していました。

3クールの抗がん剤治療では、腫瘍の拡大を抑えることはできたものの、すでに肥大したこぶし大の腫瘍をそれ以上小さくすることはできませんでした。

切断または人工膝関節置換手術のボーダーラインにいるような状態だったとは思いますが、当時の私は頑なに切断を拒否したので、自然と足を温存する施術で方針が固まっていきました。

人工膝関節置換手術とは、切除する骨の代わりに、全長30センチの人工膝関節を埋め込む術式です。

手術傷は太もも15センチ上ぐらいから脛まで縦に真っすぐ伸びています。

年々薄くなる傷跡を見る度に、「治療を乗り越えたんだな。自分にとっての勲章だな。」と感慨深くなりました。

腓骨神経切除による下垂足

主治医から手術の説明を病室で受けた時の衝撃は、今でも忘れることができません。

転移や再発のリスクを最小限に留めるために、腫瘍の周りも大きく切除する広範切除を行うという説明だったのですが、

「手術で腓骨神経も一部切除するから後遺症が残ってしまう。そうすると、下垂足と言って、足首を自力で上にあげることができなくなる。常に足首が下に落ちているから、少し足をひきずるような歩き方になってしまう」

人工膝関節手術をしても普通に歩けるようにはなるだろうという希望が打ち砕かれた瞬間でした。

変な話かもしれませんが、がんと宣告された時以上にショックでした。

体が不自由になって、病気の前のような生活を送ることができない悲しさがドッと押し寄せてきましたが、ただ現実を受け入れるしかありませんでした。

こぶちゃん
こぶちゃん

それでも命を優先する。命があれば何でもできるから。と言って励ましてくれた主治医の言葉が強烈に心に刺さった。サポートしてくれる人たちがいたから、辛いことも乗り越えられたかな。

術後のリハビリと歩行レベル

術後5年まで杖を使用

術後2カ月間にリハビリを受けて、退院時には杖をついて帰ることができましたが、後遺症の影響もあって、術後5年間は杖を完全に手放すことはできませんでした。

膝は目標の90度まで曲がるように、機械を使いながら少しずつ角度をあげていきました。

最初にどれだけしっかり膝を曲げられるかが肝心だと言われていましたが、膝を曲げるたびに痛みが走ったので、思ったようにリハビリを進めることができませんでした。

こぶちゃん
こぶちゃん

120度近く曲がる人もいるみたいだけど、私の場合は90度がMAXだったかな。

屈曲角度が大きいほど、それだけ可動域が広がって、中には自転車に乗ったりすることが出来る人もいるそうです。

短下肢装具の装着

手術の後遺症に下垂足が残ったことで、術後2年までは短下肢装具を装着して生活していました。

確かに、短下肢装具を装着することで足首が落ちることはなくなりましたが、当時高校生だった私は、短下肢装具が靴から見えているのがイヤでイヤで仕方がありませんでした。

見た目よりも機能重視であることは頭では分かってはいましたが、短下肢装具を装着した自分の姿を受け入れることができませんでした。

そのため、途中から短下肢装具を履くのをやめて、装具の代わりとなる靴を探すことにしました。

ただ、その靴選びにはとても苦労しました。

こぶちゃん
こぶちゃん

足先が垂れ下がった状態で躓かないように、足首に支えがある靴を選ばなければいけなかったよ。そういう靴がない時は、あえてヒールの高い靴を履いて歩くこともあったかな。

冬は足首を固定できるレースアップブーツを中心に選びましたが、夏はなかなか合う靴がなかったので、オーダーメイドの靴を2足作りました。

靴選びの大変さや下垂足の辛さをを共有できる同年代の患者さんがいなかったので、手探りで解決策を模索していきました。

そうこうしながら、靴に工夫を施して毎日歩くうちに、日常生活を普通に送れるぐらいまで回復しました。術後5年経った頃には海外で一人で生活ができるようになりました。

まとめ

ブログの1記事にまとめるのが難しいくらい、5年という時間の中で、人生の価値観や人との関わり方など自分の根幹を揺るがすような経験をたくさんしました。

当たり前のように人生が順調に進んでいくと思っていた15歳の私にとって、病気の発覚は人生の大きなターニングポイントになったと思います。

「どうして自分だけ・・・」

そういった気持ちが拭えず、家族に八つ当たりしたことも何度もありました。

それでも前だけを見続けることができたのは、医療関係者や友達、そして何より家族の献身的なサポートがあったからだと思います。

どんなに厳しい状況でも、傍にいて励ましてくれたことが何よりも自分にとっては力になりました。

それはがんの治療中だけではなく、切断手術に臨む時もそうでした。

当たり前のことですが、支えてくれた人への感謝の気持ちは忘れずに過ごしていきたいですね。

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